夜が明ける前に 2
僕はジョシュ・スコットの小説がなにより好きだ。
その理由は至って単純で、彼が書く小説の主人公が毎回突然人を失うからだ。
それは昨日までいつも横で寝ていた女の子が、あくる日目を覚ますとその場からいなくなっていて、いくら連絡をつけようにも電話が繋がらなくなっている類のものだったりする。
もしくは、ある日突然いつも一緒に遊んでいたグループの仲間全員から無視され、なにをしようにも全員が話に取り合ってくれなくなっていることかもしれない。
そこには見事なまでに理由がない。そして彼らもまた誰一人としてその理由を語ろうとしない。
ただ無言で目の前から去って行く。
そこに僕は彼の小説の本質を感じる。
昔ジョシュは何かのインタビューで、「物事は大体において判然としておらず、人はそれ自身になんの意味があるのかを理解できない。」と言った。
ジョシュ・スコットという小説家は、意味のない比喩を延々と書き続け、わけのわからない象徴を大量に描き続けた無意味な作家だった。
おそらく彼自身、自分が何が言いたいのかを把握できていなかったと思う。
しかし物事の本質なんていうものは混沌のなかに埋もれたゴミくずのようなもので、もともとそれ自身が無意味なものだ。
そんなものばかり追っていたものだから、彼は無意味な象徴の代表としてビルの53階から飛び降りた。
「去っていくばかりでは悲しいではないか。」
もう彼のもとから去っていく本質はどこにもない。
「純粋であることはいいことだ。」
時計の針は既に夜の3時を回っている。夜中の沈黙には張り詰めた鋭利な目が無数に張り巡らされている。
「俺はそうやって今まで教わってきた。」
「しかしそのままでは生きていけない。いつかそれを壊さなければならない日が来る。」
「それがどうしてだか、お前にわかるか。」
「そうであるべきものが、そうではないと否定された時の苦痛が。」
「その理由さえ納得して教えてもらえないことが。」
「それでも生きていかなければならないことが。」
昼の3時と夜の3時は、時計の指版上では同じ位置を示している。
「昼の光に、夜の闇の深さなど分かるものか。」
僕は何もかもを失ったあの暑い夏の日差しの中を歩いている。
そこでは大量の嘘と、ささやかな虚栄心が舞っている。
あと少しで、僕はこの眼下に広がる少し湿ったアスファルトの一部になるだろう。
もう僕はここから動くつもりはない。だって、去っていくばかりでは悲しいじゃないか。
だけど、動くこともない汚れた心は、僕はやはり少し悲しい。
ビルから飛び降りることになったって、どこかへ向かおうとする心はやはり美しい。
僕は、僕が思うよりずっと僕が好きだ。
そしてきっと、それだけでいいのだ。