おじいちゃん
ある人と過ごした最後の日がいつだったのか、僕は全く覚えていない。
いや、最後の日といったってなにもお別れを告げたその日のことを指すわけじゃない。その人と過ごした時間の中で、この日こそ一番大事だと思えたその日のことを僕は最後の日とここでは呼びたい。
僕のおじいちゃんは6月23日、僕がちょうど高校2年生の時に亡くなったのだけど、僕の中でのおじいちゃんの最後の日は、おじいちゃんと二人で岡山へ鈍行電車の旅をした日のことだ。
その日おじいちゃんはお気に入りのキャノンの一眼レフを提げて、嬉しそうに後楽園の写真を撮って回っていた。多分そうだったはずだ。
それから僕はおじいちゃんと二人でおばあちゃんのお土産に桃太郎のきびだんごを買って、少しその辺を散歩してから讃岐うどんを食べた。そしておじいちゃんは疲れやすかったから、僕らはよく分からない喫茶店に2回ほど入った。
それから僕ら二人は来た道と同じ鈍行に乗ってユラユラと何もない岡山から何もない京都へ帰っていった。夕方の5時だった。どこまでも続くクソみたいな風景の中で、僕とおじいちゃんはほとんどなにも話さず電車に揺られた。
だけどその時おじいちゃんは鈍行は疲れるから特急に乗ろうと言ったかもしれない。もしそうなら僕らは恐らく鈍行になど乗っていない。
その何日か後、おじいちゃんの容態は突然悪くなった。お見舞いに行くとおじいちゃんは痴呆になっていて、僕の名前も思い出せないようだった。なんでだろう。なんで僕たちは岡山なんかに行ったのだろう。
それから数日も経たないうちに、おじいちゃんは恐ろしい速さで亡くなってしまった。聞いた話によると、内臓の器官不全だったらしい。当時の僕には話が重すぎると、話の全容を親から聞かされることはなかった。悲しかった。
そして僕の悲しみはその日から日が経つにつれて元のよりも徐々に徐々に大きくなっていき、遂にはカーペットについたコーヒーのシミみたいに、その悲しみがそこから永遠に取り除けないものとして存在を主張するようになった。
僕はもっと刻み込むようにしておくべきだったのだ。せめて僕がその日おじいちゃんとしたことがくっきりと頭に残っていれば、僕のカーペットはこんなことにはなっていなかったのだから。
だけど僕はあまりにもバカな男だから、それ以後もずっと他の人にそんなことを繰り返し、遂にはただ汚れたシミだらけのカーペットを広げては歩き回るクソ雑魚として、世界に君臨するようになった。
カフェで飲むアイスカフェオレの氷が溶ける音がする。
街を歩く。
僕は人の顔を見るのが好きだ。なにも嫌らしい話ではなくて、その人の顔からその人の歴史を探るのが好きだったりする。歳が上であればあるほどなおいい。
白いワンピースを着た華奢なあの綺麗なおばさんも、昔はきっと華やかな人で、周りからもてはやされていたんだろうなぁ、とか。
苦しそうな顔をして街を早歩きするあのおじさんも、昔は休日家族とどこかへ遊びに行くのを喜びとし、仕事にも多くの夢や理想があったんだろうけど、遂にある程度歳になって世界が俯瞰的に見えるようになり、全てに嫌気が差して。それでもああやってスーツを着て立派に背筋を伸ばして歩いているんだなぁ、とか。
一体彼らが向かっているあの交差点にはどれだけの諦めた理想とか、追いかけている夢が歩いているのだろう、とか。
あの店内にはどれだけの思いを忘れた人たちが歩いているんだろうなぁとか思ったりする。
カフェに入る。コンビニに入る。
街を歩く。駅で降りる。
本を読む。映画を観る。
そのあちこちで僕は誰かを思い出し、僕は誰かと会う。
いろんなものが錯綜して、いろんなものが生まれ、やがてそれらも結局すべて日常という混沌に埋没していく。
時計の針も、街を歩くそのファッションも、この流れている空気の匂いも、ちょっとした道路標識でさえも、すべてが日常という混沌に流れ込んでいく。
僕の実家には僕が中学の時に開けてしまった穴がリビングに一つある。
あれを見ると思い出す。
実家の勉強机の引き出しを開けると小学生の友達を思い出す。
そんなことをしてはやめてを繰り返す。
するとカーペットのシミを広げては眺めるだけで、もしかしたらたったそれだけで、僕たちは十分なのかもしれないと思ったりする。
だってそれが最後の日なんて誰も分からないじゃないか。
街を歩く。音を聞き、匂いを嗅ぐ。
この世界にいる。僕はこの世界で生きてきた。
僕はそこで誰かに会い、誰かを思い、そして僕はその誰かにこのカーペットのシミを見せつける。
ありがとう。ありがとう。
おじいちゃん。約束、なんとか守れそうです。
頑張ります。
元気でやっています。そしてきっとこれからも元気です。
カーペット汚ないでしょう?掃除が苦手なんだ。
大嫌いで、でもそんなに悪くもない7月になりました。人生です。