名前をつけてください

なにもないよ

そこに

 

原因の分からない、何かの病に罹ってしまった。

2ヶ月前からあまり食欲が湧かず、呼吸をするのもしんどくて、たまに目眩が襲うようにもなった。そして先日、ついに何も食べていないのにもどすようになった。

だから僕はここ2ヶ月を、何かの作業に追われているか、はたまたベッドで一日中横たわっているかのどちらかをして過ごした。

生きていく為に必要な作業と、その英気を養うための時間。

結局僕は、生きていく為に生きていた。

 

 

時が過ぎるのは早かった。

ずっと繋がっていた彼との電話は切れてしまった。

いつまでたっても僕は、自分一人で自分を肯定するだけの勇気なんてなかったし、世界を、自分一人で否定するだけの力なんてなかった。

僕には彼女ができた。彼は別の惑星に、嬉々として向かった。

彼はもう自慰を恐れなかったし、勿論僕ももう、自慰なんて怖くなかった。

 

僕らはあの時笑った。自慰をしている奴らを見て笑っていたのだ。

僕らは、自慰の後に襲ってくる巨大な自己嫌悪を恐れた。それは女の子に申し訳ない行為だと知っていたから。

僕らは、天井を見上げて泣いた。白い液体は、そのまま腰を伝って地面に流れた。

僕らは笑った。

なぜ僕らだけが申し訳なく思っているのだろう。

僕らが想う誰かは、そのまま黙って僕らの白い液体の行く末を見つめている気がする。

 

街の通りでは、みんなが自慰をして笑っていた。社員証を自慢げにぶら下げたサラリーマンも、ベンツに乗った身振りのデカいセレブも、幸せそうに抱き合うカップルも、ブランドに身を包んだ女性まで、みんな臆することなく笑顔で自慰をしていた。

そんな彼らを僕らは笑った。笑うことしかできなかった。なぜなら僕らは、そんなこと、できなかったんだから。

僕らは汚かった。僕らはずるかった。だから僕らは同じだった。

 

そして僕らは、誰にも気づかれることなく、そのまま数時間横たわっていた。僕らはカートコバーンが好きで、スコットフィッツジェラルドが好きで、フーコーが好きだったから、いつまででも話は尽きなかった。

僕らは、信じるものを僕らなりの尺度で決めたことだけが誇りだった。それは例えば芸術であり、思想であり、人間であった。そこに他者の目線や評価が一切介在していないことが、僕らの唯一の誇りだったのだ。

 

交差点の真ん中は綺麗だった。だから、僕らはそこで射精した。そこではみんなが僕らを、僕らの悩みを、無視してくれた。それは清々しかった。清々しいほど何もかもに気づかぬふりをしていた。

人の悪意も、人の善意も、人の傷も、世間の傷も、ものの理由も、ものの意義も。

そこは綺麗だったが、そこにはまるで何もなかった。ただ車が道を通り過ぎるように、何かがあって、でも何もかもがなかった。

行き先なんて考えなかった。誰がどこへ向かうかなんて関係なかった。誰がどのようにしてここまで来たかなんて、もっと関係なかった。

ただそれは通り過ぎていくのだ。だから考えなかった。

僕らの頭上には、一頭のミサイルがある。そして僕らは起き上がる。

起き上がる頃には、その液体はカピカピになって透明となり、射精の跡一つ残さず、だけど肌に付きまとうような違和感だけを残して、僕らは別れる。

僕らは、反省などしない。僕らは、所詮大衆迎合に踊らされる市場の所有物である。

彼は惑星へ、僕は、躊躇している。

彼は信念の元に、僕は、躊躇している。

僕には何もできやしない。

 

 

2ヶ月前、僕に初めての彼女ができた。別に好きではなかった。

僕は、僕を好きになろうと思った。ダメな自分を愛してくれる人がいることが分かれば、僕は僕を好きになれると思った。

そして、自分を好きでいてくれる人は、やがて自分も好意が持てるようになるだろうと、僕は思った。

そんな大層な人間ではないのに、こんな風に上から目線で彼女のことを思うこと自体が僕は申し訳なかったが、でも事実僕はそう思った。事実は僕にとっても、誰にとっても平等に真実であり、否応無しに僕らを傷つけた。

だから僕は、その贖罪として事実を彼女に見せなかったし、見られる前に、彼女を目一杯好きにならなければならないと思った。

そしてそれはとても重かった。

 

その帰り道、途方に暮れながら帰った僕を、僕は決して忘れはしない。喜びとは程遠い感情を持って電車に揺られた僕を、引き摺るような責任感を持って家路に着いた僕を、僕は許さない。

彼女は笑っていた。とても素敵なはずだった。

彼女が可哀想だった。

 

僕には自信がなかった。彼女は僕を好きだと言ったけれど、僕には自信がなかった。どこをもって自信とすればいいか、僕にはよく分からなかった。だからこそ僕はせこかった。彼女を利用しようとした。僕は汚かった。

僕は僕の好きなカートコバーンでもなければ、フーコーでもなく、ましてや"彼"ではなかった。僕は"僕ら"ではなく、単なる僕だった。僕は僕の好きなものでもなんでもなかった。僕は僕が嫌いだった。大嫌いだった。

僕は幼稚園の僕であり、小学校の僕であり、中学生の僕だった。

僕はいつまでたっても周りに依存していた。

でもそんな僕を、彼女は好きになってくれた。

 

ただ、事実で語れる明らかな論拠がいくつあっても、どれだけその人にとって心強い論理が現れても、それが人の心を納得させ、穏やかにさせるものだとは僕は思わない。

もしそれが可能であったなら、誰もが自分の悲しみを誰かに語り、語らない多くの人が、地球の奥深くでひっそりと自殺することはなかっただろう。

人が人を変えることは難しい。

 

けれど、それでも、人は僕を慰めてくれた。そしてそれは当然、彼女もそうだった。みんなは、彼女は、優しい人だった。

僕は汚い自分を申し訳なく思うと同時に、僕を大事そうに抱える彼女を不憫に思う。強くそう思う。

そして、揺るがない僕の自信のなさを、僕は恥じる。論理より強いものが、僕は欲しい。

だから僕は思ったのだ。せめてその時笑った彼女の顔を忘れないでいようと、そう思ったのだ。

その先にきっと、僕の何かがあるはずなのだ。

 

 

そして堪らず僕は吐いた。自分の泥を吐いた。

僕は泣いた。自分の弱さを恥じるのだ。

これは僕の義務である。これは僕だけの義務だ。

人が積み上げた多くの事実の先に優しさがあるとしたら、これは僕が積み上がるべきものだ。

これは僕だけが積み上がるべきものなのだ。

僕は泣いているし、彼女も泣いている。

僕が嫌いな僕を大事そうに抱きしめる彼女を、僕はできるだけ強く抱きしめる。

きっとこれでいい。これだけでいいのだ、今のところは。

そうやって、やっていこう。

僕は汚かった。でもその分、僕は綺麗だった。

世界は汚かった。ただただ汚かった。無意味な言葉だった。意図的なものにしか聞こえなかった。もしそれでも世界は優しいと言うのなら、僕は綺麗すぎた。

僕は前を向く。僕は僕を信じる。だから僕は抱きしめる。

そのずっと先にきっと何かが待っている。

 

 

時が過ぎるのは早い。

ずっと繋がっていた彼との電話も、大昔に切れたままだ。

彼は向こうの惑星で輝いている。きっと、とんでもなく輝いている。彼は見つけたのだ、きっと。

 

僕は求められた世界の中で、自分が思うように生きようとしている。

僕は楽しむために生きている。

僕は楽しむために生きていく。

だから僕は肯定する。楽しむために、肯定する。

 

未だに思うような文章が書けなくても、それでも今もこうして文章を書いているように。

意味のない象形が、何かの意味を持って浮かび上がってくるのを待つ子供のように。

 

 


Richard Ashcroft - A Song For The Lovers