夜が明ける前に
たとえば53階のビルは程遠い。
誰も知らないどこかへ行くには遅すぎたし、悲しみに暮れて泣くにはまだ早い。
秋に中間点は存在しない。
そこにはただ夏の終わりと冬の始まりだけがある。
冬は何事もなかったかのようにやってきて、何事もなかったように街を照らす。
それにとぼけた人々はジャケットを脱ぎ、口をあけたまま顔にコートを着せる。
そしてそこで彼らはやっと一年分のサンタを抱くことになる。
メリークリスマス。
何かのはじめてを想像するとき、彼ははちきれんばかりのウイスキーに溺れる。
そこで彼女は浮遊している。
彼が溺れるウイスキーの悲しみは、世界のどんな海溝よりも深く、あらゆる山道より険しい。
そしてそれはまた、そこで浮遊する溺死体の彼女の喜びの深さをも意味する。
それがどんなに悲しいことか。どれほどの意味合いのものか。それは彼にしかわからない。
遠くに見える無愛想な山あいの色が紅く染まるとき、世界は一時の平和を取り戻す。
教師は列を為し、そこに向かって深く礼をする。
やさしさとはなんと不明瞭なものか。
やがて来る夜の曖昧さに、そこへ飛び込む前の彼の声音に、彼女は涙する。
それは彼がそうさせたのではない。世界が彼女に仕向けた嘘だ。
それがやさしさだ。そしてそれは限りなく切ない。
君が持つミニカーはどこかへ行こうとする。
遠くでそれを待っている人がいる。
やがて時は経ち、花が揺れ、風が吹く。あらゆる物事の順番がおかしくなっていく。
それでも世界中の農夫たちは、そのミニカーがはるか遠くへ行くことを願うだろう。
その意味が誰一人わからずとも、彼らはきっとそう願うはずだ。
そして僕もそれを強く願う。
言葉に強力な意味を持たせたい君はいずれ強力な言葉を使うことになる。
君にはそれが十分にできるだろう。少なくとも僕はそう考える。
夏草は燃えたし、もみじは紅葉した。
彼は彼女と死体になって一緒に海へと流され、ミニカーはここには存在しない世界の果てまで無事飛んで行った。
大体においてすべての願望は母なる大地へと流れつき、あらゆる希望は羽をつけて飛んでいく。
それが言葉だ。
でも、愛しているだけでは強くなれない。
文学を愛だとあの人は言ったけれど、時代は誰も彼に同調しなかった。
そして重心のない愛と巨大な嘘は人の身を滅ぼす。
しばらくして彼は自殺した。
人を魅了する言葉が絶対的破滅を断定する過激なものであるのと同じように、彼もまたヒトラーの肖像画と母親が映った写真の額縁を抱えて53階のビルから飛び降り、身を滅することでその愛と嘘を肯定した。
でももしその愛を謳うことが彼に飛び降り自殺を促したと言うならば、そんな愛なんてはじめからいらなかったのだ。
そしてそのときはじめて時代は彼の文学を認めた。
彼は暑いあの日差しの中を歩いている。
言葉じゃない何かを探し、理屈じゃない道筋をたどっている。
街では彼女の影が多く歩き、ときおり彼女の匂いがした。
遠くで花火の音が聞こえて、桜が舞う。
きっとわけがわからないと言うだろう。夏に桜は舞わないのだ。
でも僕にはわかる。何を言われようとあの夏の暑い日差しの中を桜は舞ったのだ。ささやかな嘘と柔らかな虚栄心の中で。
僕はその先を思う。
そしてまたその先を考え、さらにそのずっと先を考える。
彼は彼がいた時間を思うだろう。
それでいいのだと僕は思う。
世界はすべて象徴だ。
夜になってから花は咲き、アスファルトは何事もなかったかのような顔をして昨日の雨に濡れている。
そして僕は彼が歩くそのアスファルトのはるか先を、嘘みたいな口笛を吹きながら願っている。