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なにもないよ

男と女


なんとかこれを文章として形にしたいと強く思う。
なんとしてでも書きあげたいと強く思う。
けれど、その思いが強ければ強いほど何も書けなくなってしまう。
書いては消してを繰り返し、やがて僕は完全に塞ぎ込んでしまう。 
なんて僕はダメな男なんだと。なんで僕はこんな人間になってしまったんだと涙してしまう。
文章が書きたい。なんとかして伝えたい。誰かに伝えたい。
感情が先走ってしまうのを抑えたい。感情を抑えて言語化し、自分を癒したい。
それでもやはり、どうしてもそれができない。文章が全く書けない。
つらいと書きなぐりたい。どうして僕はこんなにクソなんだと書きなぐりたい。彼女もまた、どうしてそんなにクソなんだと書きなぐりたい。なんでそんなことをしたんだと怒りたい。怒りという一言をひたすら書き連ねて全てを終わらせたい。大事な何かが揺らいでしまう瞬間の、あの心の動きを僕は忘れられない。

彼女の熱い吐息を思う。彼女の恍惚とした表情を思う。彼女のはだけた綺麗な胸を思う。彼女の楽しそうな酒の席を思う。彼女の温かく柔らかな息がかかった彼の耳を思う。首に巻きついた彼女の腕の白さと、彼女の二の腕の柔らかさ。
そして彼女は、少し涙が滲むその目と赤みがかった頬を携えて彼とどこかへ行ってしまった。
彼女はなにをしたのだろう。彼とどこまで行ってしまったのだろう。誰がそれを僕に教えてくれるのだろう。なぜ僕がそれを尋ねに行き、彼女に教えねばならなかったのだろう。

僕はあれからひどく傷ついてしまった。
何かにつけて彼女を責めてしまうが、結局は何も出てこなかった。そんなこと初めから分かっていたのに、僕は何度も何度も繰り返し彼女を責めてしまった。
ある日僕は彼女からそんなに怒られると何も言えなくなると怒られた。その通りだ。

も僕は何も悪くない。僕は謝るべきなのだろうか。僕は彼女にその通りと思わせることを言ってはダメなのだろうか。
悪くないのだ、僕は。僕はその時、家で一人テレビを見ていただけなのだから。
酷く酔いそうだという彼女からのメッセージを見ても、僕はそこから遠く離れた場所で指をくわえて連絡を待つことしかできなかったのだ。今後僕が傷つくことがなんとなく分かっている状況で。
そんなのあまりにも惨めじゃないか。ちょっとは想像してくれてもいいじゃないか。

彼女を傷つける結果になったとしてもそれは仕方ないだろう。僕は十分傷ついたのだ。 
彼女を責めるまさにその一瞬も僕は傷ついているのだ。
それなのに僕は、また笑って彼女を慰めてしまう。彼女が可哀想に思えて仕方なくなる。それでは一体誰が僕を慰めるのだろう。
なぜ僕が君に泣いて責められるのだろうか。
君こそが僕との関係を繋ぎ止めようとするべきじゃないのか。なぜ僕がそれを率先して引き受けているのだろう。

僕は誰にでもそうだ。強く意見した後には必ず笑ってしまう。
なんでだろう。
僕は本当に深く傷つき、失望しているというのに。
君が泣くと、僕は申し訳なくなる。なんでだろう。お酒の席の話になると寝れなくなるくらい辛いのに。
僕はもう、誰も信用できない。

男女関係は醜く、酒は汚く、全てはもう無になってしまったのだ。
街中を酔っ払って歩く女は汚く、それに手を貸す酔った男は更に穢らわしい。気持ちが悪い。女が好きな男が嫌いになり、男である自分の性欲さえも嫌いになってしまう。
でももしかしたら僕のそういう目線が汚いだけなのかもしれない。あるいは僕は、未だに女性に対して高潔な感情を持ちすぎているだけなのかもしれない。

全てが汚れてしまった。もう僕はやめたいのだ。
疑うこと、その一切をやめたい。
彼女もあれから努力をしている。その努力を讃えたいのに。
なんでこんな風になってしまうのだろう。
なんでいつもうまくいかないのだろう。
僕は笑いたくないのに、なぜ最後はいつも僕が先に笑ってしまうのだろう。
だからいつまでたっても彼女に不満を持ってしまうのだ。
僕は君に励まして欲しい。抱きしめて欲しい。
寂しいのだ。

君は楽しんで、僕は辛がって。
君の知らないところで僕だけ悲しんで。
束縛しないように気をつけながら、一方で涙を流して。
本気で怒りたい。本気で伝えたい。
嫌なんだ。
そしてまた今日も、僕は君にありがとうを言うのだ、涙を流しながら。でもそれを隠して「大丈夫だよ、たのしんで」 そう笑って言うのだ。なんでもないよ、いつものことさと言わんばかりに。
なんでだろう。なぜまた笑ってしまうのだろう。本当は悲しいのに。怒ってさえいるのに。
ごめんも言いたくない。
それなのになんで僕は笑って謝るのだろう。
でも本気で怒ったとして、彼女の弱る姿も見たくはない。
そうであるなら、僕はもう笑うしかないのだろうか。
そして彼女は、僕が怒ることに嫌気がさしたら僕の元から離れていくのだろうか。

彼女はあの時、彼とどこまで行ったのだろう。
彼女はあの時何を思ったのだろう。
それを思うと僕は、どうしようもない気持ちになる。
この気持ちは、女に去られた男たちにしか分からない。
一度女に去られた者たちは、もうあの孤独から逃れることができない。
この気持ちは、女にも男にも分からない。分かるのはただ、女に去られた男たちだけである。
君は否定するけれど、僕には浮気された人の気持ちが分かる。
それがどれだけ辛いことか、それがどれだけ世界の見え方を変えてしまう出来事なのかが僕には痛いほどよく分かる。
オブラートに包む自分も嫌だが、僕にはこれが限界なのだ。君は故意じゃなかろうとも、確実に僕の知らないどこかに一歩足を踏み入れたのだ。
浮気。体と心の一部を奪われること。
 

5月初旬のよく晴れた日。
僕の腕にある数本の傷を見て、柔らかく微笑んだ彼女の顔がずっと忘れられない。
そう、僕はあれがどうしても忘れられない。
彼女は言った。
内側にはきちんと傷をつけてないんだね、偉いね。でももうしちゃダメだよ。大切にしてね。あなたが大事なの。悲しいよ。
だけど僕は知っている。内側にもきちんと傷はある。そして恐らく、腕を眺めた彼女もそれは知っていたはずだ。
彼女はしばらく黙って僕の腕をさすり続けた。
ゴツゴツしてて気持ちいいね、腕。私はこの腕、大好き。
僕は顔が火照ってしまう。恥ずかしくもあり、そして誇らしくもある。
もう傷なんてつけないでおこうと思った。
僕はこの子のことを好きでいたい。
そのままずっとさすり続けていて欲しかった。
彼女は、どこまでも優しい人だった。

それなら君ももっと自分のことを大切にしないとダメじゃないか。


僕は許すことを覚えたい。人に任せることをまた覚えていくのだ。
あの腕を笑顔でさすり、ずっと僕を待ってくれた彼女。今僕が絶対的に信じているのに、どうしても最後まで信じきれない彼女。信じたい。たとえ無理だとしても。
僕は僕であり、彼女には彼女の生活があり、彼女の生活の一部に僕がいて、そこで理解し合おうとするから僕らは素敵なのだ。
許すこと、何より人間は完璧ではないということ。
そして人は誰も日が昇らない一日など望まない。
新たな朝焼けが、この長く悲しい一日のベッドルームを赤く染め上げた。
朝だ。