名前をつけてください

なにもないよ

疾走

 

氷は溶けてなくなる。必ずどこかの時点で、完全犯罪のような形をもって、その姿を消してしまう。

やがてそれは蒸気になる。遠い街へと飛んでいく。 

そこに残るのは液体だけであり、その液体は私が気づかぬうちに一つの形跡さえ残さず蒸気となる。

その行き先を私は教えられない。ただそれを見送ることしかできない。途方に暮れたその後ろ姿を、もう誰も見はしない。私に寄り添う人はもういない。

それは行ってしまった。そして私にはそれを引き止める力がなかった。

できればそこに向かって走り出したいと思う。肩を掴んで離さない。ゆっくりと時間をかけて説得し、こちらの世界へと引き戻す。

どれだけ私がそれを渇望したか。どれだけ私がそれを思ったか。どれだけ私がこの世界を素晴らしいと思えたか。

そしてそれは涙する。私の声を聞き、私の世界に入り、それは深く涙する。いや、涙して欲しいと思う。そして私はその涙を乾かし、その時初めてその蒸発を許したい。許す努力をしたい。

我々は、この世界の外気に触れたその瞬間からもう溶け始めている。生まれたその時から、もう既に蒸発への一途を辿っている。

我々はそれを残す術を知らない。失っていく瞬間でさえ、まさにそれが失われている途中であることに気づかない。

やがて我々は発見する。大きな時間の経過とともにそれを発見する。

これは失われるのだと、溶け出した水を見て愕然とする。

どうやって我々はそれを取り戻せるのだろう。

そして我々は気づくだろう。その失意は癒せるのだと、絶え間ない努力の過程によって気づくだろう。

そしてそれこそが言葉だ。


溶けていく。

恐らく外気に触れるとはそういうことだ。

我々は生まれてしまった。我々はその瞬間、不幸なことに何かを持ってしまった。

そして必ず、それらはどこかの段階で抜け落ちていく。


疾走。



やがて春になる。少し寒いまま、これからは春になっていく。みんな大嫌いだろう。

カーテンを開ける。コートを着るか迷っている。

遠くドアノブを見つめて、外に出るのを躊躇している。

花粉の季節に目をこする。太陽。

通りでは色んな門出が祝福されている。

 

桜が咲いている。曇天の空にカラスが飛ぶ。

通りの風が木の葉を揺らし、寂しい春を運んでくる。

それは伝わる。必ず伝わる。

その匂いの核のところを、今僕は思っている。

 

"冬が来たんだよ。外は危ないんだから。

走るのが遅いでしょう?

これからは走りの練習をするんだ。" 


僕は広い公園に一人、そのままの姿でずっと立っている。冬も僕も、結局のところ君の前では嘘をつかずにはいられないみたいだ。

晴れ着姿の集団が、笑顔そのままに駆けていく。

3月。

即ち疾走。

 

電車に揺られている。それは必ずどこかへと向かっている。

僕は特別な何かを待っている。

車窓の景色は流れ、君は街へと帰って行く。

大事だと伝える。

壊れてしまうかもしれない。


昔の記憶。鮮やかな夢。晴れやかな笑顔。スヌーズをかけた目覚まし時計。

目標は10時。

暗い部屋の一室で、安上がりのアコースティックギターが一本。

話し声。午前4時。

「わたし、あなたの文章が好きよ。」

僕は咄嗟に振り向いた。あまりに全てが眩しかったから。

太陽?

いや、違う。

何かを尋ねる。

首を振る。

何も分かってない。

「僕はそういう嘘が好きだったんだ。」


知ってるから。

全部わかってるから。

でもそんなことはどうでもいい。

早く電気を消そう。鼻をかんで、早く寝よう。

全ては僕がやっておくから。

 

もう宛てることのない人へ、二度と書かない言葉を書こう。

これをもってそのまま筆を置いてしまうこと。

そのまま別々に歳を老いてしまうこと。

全く重要ではないこと。

僕以外の、あらゆる本質すべて。

その全てを書いていこう。

 

リフレイン。

 


3階の部屋をあける。

白いカーテンに太陽が反射する。

この部屋の、あの片隅にいつもあったペットボトルが今日はもうそこにはない。

僕は戸惑ってしまう。少し汗が流れてくる。

おかしい。一体どうしたというのだ?

僕は今まさにそれを拾いに来たのに。この雨の中を、傘も持たずに駆け抜けて来たのに。

いつもの飲みかけの紅茶はどこへやった?

笑って隠した食べかけの担々麺は?

そして僕は一つ、世界の真理に到達する。

それを探せば、きっと彼女の元にたどり着けるはずだ。

だって彼女は、いつもそれを大事そうに抱えて走り回る元気な人だったから。すぐにモノを失くすために、彼女はモノを失くさないよう懸命に知恵を振り絞ったのだ。彼女は、いつでも、どこでも、大きなリュックサックを背負っている。

だから、彼女があるところには必ず大きなそれがあるはずだ。

きっと彼女は今、それら全てを失くさぬようバックに詰め込み、隣の街まで買い物に行ったのだ。

バイトのお遣いにでも駆り出されたのだ。

一人どこかへ食事に行っただけだ。

そうに決まっている。

大丈夫。


彼女は優しかった。望むべくもないことだったかもしれないが、結果としてはそうなってしまった。

そしてその優しさは、きっとただで利用されるものじゃないはずだ。

彼女の優しさはそんなものではない。

彼らは一様に彼女に優しくするだろう。豪華な晩餐を開いてしまうかもしれない。

王様は彼女にお金をあげ、家をあげるだろう。

世界中の誰もが、彼女を前にすると何が正解で何が間違いなのか分からなくなってしまう。

全ての秩序は壊されてしまうかもしれない。

それほどまでに僕は、そのペットボトルを大事に思っている。

世界の秩序は言うまでもなく保たれなければならない。

だから僕はまだそこで立っている。

どこか懐かしいその部屋の匂いが、今も僕の胸を誘ってくる。

僕はそこで、その全てが蒸発していくまさにその瞬間を目の当たりにしている。

だから僕はずっとそこにいる。いつまでもそこで立っている。

その部屋が好きだったから。そこではいつも何かが待っていたから。

 

扇風機が回っていたから。

笑顔で話しかけてくれたから。

人形だらけのベッドが、朝誰かが急いで抜け出した形そのままにそこにあったから。

いつも笑顔で受け入れてくれたから。

嫌な暑さがそこに充満していたから。

誰かの笑い声が聞こえてきたから。

大事なものがそこにはあったから。

台所は汚れ、ペットボトルは捨てられる。

僕はその全てを望んでいたのだから。

 


春に行く。

Tシャツは風で飛ばされる。それは単なる気分によって家を追い出されてしまったのだ。

だから僕は決まって青空の下で寝ている。

子供を連れた母親は歩き、それは今日もバスの停留所で涙を飲んでいる。

並木道を抜ける。

烏丸通を五条まで下る。

僕の話に君は笑う。

下らない痴話話。

叶わない約束。

 

京都の街はいつも綺麗だ。

市内にいても、ビルの合間から遥か遠くの山を見ることができる。

そこに沈む夕日の中を、僕は歩いている。

都会の喧騒。届かない叫び。

そんな中で僕は君と出会った。

あの頃のことを覚えているか?

5月。

即ち疾走。


今出川駅6番出口の階段を、僕はいつも二つ飛ばしで駆け抜けた。

僕は忘れない。

どこまでいっても忘れることはない。

たとえ致死量3倍ものヘロインを手に取ったその瞬間も。おぞましいショットガンの銃口を、この腐った喉元に突きつけて撃ち抜く正にその一瞬も。僕は君のことを片時も忘れはしない。部屋に捨てられたペットボトルを、もう僕は忘れることはできない。

だから覚えておいて欲しい。忘れないで欲しい。

できれば君もそうであってほしいと願う僕のことを。

つまらないと非難した僕の話を。

夜中に浮かぶスマホの明かりを。

意味がわからなくてめんどくさいと怒った僕のことを。

それに凹む僕の姿を。

たったそれだけで、ただそれだけのことで僕はいいのだ。



地平線はどこまでも続いてる。

僕は記憶に関するあらゆるシステムを憎む。

僕は物語が書けたらいいと思う。

君がいたこの街で、僕は君の面影を多く見るようになる。それは僕の心を強く揺さぶって、時に全てを失くしてしまう。

グレーのロングカーディガンには必ず君がいるし、深緑のベレー帽には、もちろん君がいる。

ローソンのコーヒーは世界で一番美味しい。

そしたら僕は何を書くだろう。


幸せな物語が書けたらいい。最後はもちろんハッピーエンドだ。誰もが羨む幸福がそこには待っている。

僕は決まって夜中に物語を書く。

「あなたがこの部屋からいなくなったら、もう私は寝ちゃうんだよ。」

僕を引き留めてくれたそのささやかな声が、今も脳裏に焼き付いて離れない午前4時。

疾走。


どこまでも続く、上り坂。朝焼けに照らされた、上り坂。

途切れることはなく、それは赤い。

僕は物語が書けたらいいと思う。

君が大好きな、とても明るい物語。

僕が書けない物語。

でも書けなくてもいい気がする。いや、むしろそれがいい。

疾走。

京都御所は今日も明るい。

僕らはいつだって言葉がある。